グリーンランドの自然環境は、年間の平均温度が〇度以下の、樹木は生長しないツンドラである。
南グリーンランドでは年間の降水量が浜松とほぼ同じ一九〇〇ミリであり、
「緑の地」と名付けられたグリーンランドという地名はここで夏に生いしげる牧草に由来している。
それとは対照的な北グリーンランドは、年間に七〇ミリの降水量しかない、極北砂漠という荒涼たる風景になっている。
ここで、グリーンランドをかけぬけた人間の歴史をとりあげてみることにする。
人を殺した科でアイスランドから三年間の追放の刑を課せられた赤毛のエイリーク(エリック)が西の海をわたって、
九八二年にグリーンランドに行きあたった。現在よりも気候が温暖だった当時では、
南グリーンランドのフィヨルドの奥に膝丈まで草が茂っていることに目をつけて、
刑があけてアイスランドにもどったエイリークは「緑の地」を宣伝して植民をつのった。
世界最初の誇大広告につられて、二四隻の船にのりこんだ一〇〇数十人の植民が九八六年にグリーンランドへ出発した。
遭難しなかった一四隻の船は南グリーンランドで牛や羊を中心とした北欧さながらの酪農場の経営にのりだした。
アイスランドで人を殺した科で追放された赤毛のエイリークが船にのってあてもなく西へ航海しているうち、
当時のノース(バイキング)に知られていなかったグリーンランドに行き当たった。
グリーンランド、つまり緑の地というのは、10世紀前後に気候が現在より暖かく、氷河の国グリーンランドでも、
特にエイリークが見た南グリーンランドは緑が多かったことにちなむ名称である。
抜け目のないエイリークは追放期間が明けてアイスランドに帰ってから早速入植者をつのってグリーンランドにもどって植民地を開いた。
グリーンランドでは北欧やアイスランドと同じ生活、つまり酪農を中心とした生活が最初の200年の間成功したようにみえたが、
気候が寒冷化して14世紀の小氷期になるとバイキングの植民地が消滅した。気候の寒冷化のために酪農が不可能になったのか、
あるいは南下してきたイヌイトによって滅ぼされたのかは必ずしも明らかではないが、
その2つのの要因と、ヨーロッパ(本国)との行き来が海氷のために途絶えたなどのいくつかの要因が重なって植民地が滅んだであろうと思われる。
グリーンランドに住んでいたバイキングが本国と同じ生活をしていたばかりではなく、
衣服も建築も調度品まで同じであった。ウールや麻を織った服を着、石積の家に住み、
木製や鉄製の用具が農場にあった。もちろん、これらのものの多くは現地で作られたのではなく、
本国からはるばる海をわって運んで来られた品物である(織物だけは現地生産であったようだ)。
イヌイトとバイキングとの間にあまり接触はなくバイキングの進出によってイヌイト文化が大きく変化したこともなく、
バイキングがイヌイトから北極の生活技術を学び取った痕跡もほとんどない。
ただし、ある程度の鉄製品がイヌイト人の手にわたったことは確かであるが、定期的な交易が行なわれていたと思えない。
というのは、イヌイト文化の遺跡からはごく少量の鉄片しか見つかっていない。
最初のバイキング植民地が消滅してから約400年が経ってからHans Egedeという宣教師が1721年にデンマーアクから派遣された。
原住民(イヌイト人)の教化と、植民地の運命を確かめる命をおびてやてきたエゲデは植民地について何もわからなかったが、
熱心にキリスト教を布教していた30年間、イヌイトの文化、社会、習慣、服、宗教などについて貴重な記録を残した。
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