宮下典子隊員の日誌

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2008年2月29日

ホテルから村までは歩いていくにはやや遠い距離なので、ちょうど村に行く用があるというホテルの従業員、マーレイの車に便乗しようと待っていたが、寒さに慣れたいから先に歩いていくという長谷さんの後をついて、私もマイナス37度の気温の中を歩き出した。はく息で、口元のマフラーに霜ができる。「冷凍庫って、何度くらいだっけ?」と聞くと、「マイナス15度くらいじゃない」と長谷さんがいう。「じゃあ、凍らないのは生きているから?それとも服を着ているからかな?」とか、初めて体験する環境の中で、つぎつぎに浮かんでくる思いをかかえながら、ひたすら歩き続けた。

30分も歩いた頃、黄色い車がキュキュっと横に止まって、乗っていくかいと声をかけてくれた。正直ほっとして、村に着くまでの数分間は、私たちがここにいる理由などを話した。運転手はレゾリュートの村人で、助手席の人は他の村から働きに来ている人らしい。二人とも親しみのわくイヌイットの顔立ちをしている。強い風の中にいると、顔に日焼けならぬ、風焼け(wind burn)をするから気をつけるんだよ、と言われた。経験があるのかと聞くと、ハンターなら誰でも頬に風焼けをしているはずだという。

冒険の出発までに必要な書類や、応援の手配のために、人を探したり、物を探したり、小学校を訪れたり、いろいろと忙しいけれど、歩いて15分で一周できるような小さな村なので、道に迷わなくてすむのが助かる。人を探しているときも、名前を言うだけで、この誰で、どこに行ったら会えるのかがわかる。

役場に行くと、さっき車に乗せてくれた、ナタック(Nataq)という名前で、南の村から短期間ここに働きにきている方の人と再会した。英語で話をしていると、ふいに彼がうなずきながら「イー」と言った。「今、イーって、言ったよね???」と思わず聞いてしまった。「イー」は「イエス」という意味のイヌイットの言葉で、グリーンランドと同じだったのだ。それから、イヌイットの言葉について、字について、ナタックは私から質問攻めにあうことになる。

ヌナブトに来て、まず私が興味を引かれたのが、文字だった。同じくイヌイットの住む国グリーンランドの公用語はイヌイット語と、宗主国であるデンマークのデンマーク語の二つだけれど、それはアルファベットで表現されるので、イヌイット語のための特別な文字は公に使われていなかった。イヌイットには、もともと文字で記録をするという習慣がなく、そのために口承文化が発達するようになっていたので、いったいどこでこの文字が入ってきたのか、ますます興味を引かれた。


ヌナブト・アークティック・カレッジ 一番上がイヌイット語、二番目がアルファベット表記、一番下が英語。ここは大学ではなくて、生涯学習センターのような場所。

村に一軒だけの店、COOPに戻って、ホテルから迎えにくるマーレイを待っていると、さっきも郵便局で話しかけてきたダニエルという少年にまた会った。何か買うの?と聞かれて、本当は、ただぶらぶらと商品を眺めていただけだったのに、とっさに、「イヌイット語を勉強するための本を探しているところ」という答えが口をついて出た。ダニエルは、「ここには置いてないね…」と言いながら、ちょっと首をかしげて考えると、「アークティック・カレッジ(Arctic College)のメアリーに頼んだらいいよ、ついてきて」と言って、私を裏口から外に連れ出した。

「Arctic College」そこは、20メートル四方ほどの、小さな茶色い建物だった。入り口には、確かにその名の看板がかかっている。中に入ると、一人の優しそうな女性がいた。その人がメアリーさんだった。何かご用ですかと聞かれると、「私、イヌクティットゥを学びたいと思っているんです」と、またしても用意していなかった答えが口から出た。メアリーさんは、どのくらい滞在するのか聞いたうえで、一冊のテキストを貸してくれた。これ、本当は教師用なのだけれど、あなたの役にたつと思うからと言いながら。

朝、ホテルに働きに来ているレゾリュート生まれのサラとおしゃべりをしているときに、彼女がふと発音したヌナブト準州の首都の名前、イカルイト(Iqaluit)。思えば、ちょっとのどの奥を鳴らすような、その独特の発音を耳にしたそのときから、ああ再びイヌイットの土地にやってきたのだという嬉しさが、しみじみと、じわじわと、わきあがってきていたのだ。

宮下 典子

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