2005年3月3日

ステパン捜索

明日は天候も良く、いよいよワード・ハント島へ飛べる気配だった。 みんなの士気も上がっている。 朝から、ステパン(ロシア隊員)が「トレーニングを兼ねて装備チェックと写真を撮って来る」と、 ホテルを出て行った。しかし、そのことを知ったホテル・マネージャーのルーカスとウェインは、 「ライフルは持ったのか?ペッパー・スプレー(クマ用の催涙スプレー)は?」という。

ホヴァード(ノルウェー隊員)と私は、慌ててライフル、ペッパースプレー、衛星電話を持って、 スノーモービルにまたがった。乱氷帯に目を凝らして、ステパンの姿を探した。 走行途中、やっとスキーのトレース(跡)を見つけた。それを追う。 しかし、雪の上に残る小便の黄色い跡を見つけると、そこから先は何の跡もついてない。 360度見渡しても、何の跡も確認できない。ホバートと顔を見合わせる。 シロクマにもう食べられたか?あれ?まるで、狐につままれたようだった。

よく見ると、スキーのトレースは、同じトレースの上をきれいに重なって戻っている。 しかし、我々は来る途中ステパンとはすれ違わなかった。 起伏に隠れて見えなかったのだろうか? まわりは乱氷だけで、ライフルを試射するには良い条件だった。 ホヴァートが撃った。続いて私が撃ったが、撃鉄が弾をたたかなかった。 つまり不発である。残念。私の腕の問題ではない。

実は、ホヴァート・ステパン・私の3人は、国は違うが陸軍(私の場合は陸上自衛隊)出身で、 全員が落下傘部隊にいた。更には、全員が予備役(私の場合は即応予備自衛官)で、 今でも訓練に召集される。冷戦時代、日本はロシアを仮想敵国としていた。 当時は、ロシアと日本の予備役・予備自衛官同士が、外国で一緒に行動するなどありえなかった。

ホヴァートと私は、すぐにホテルへ戻った。 さすがノルウェー人のホヴァートは、スノーモービルに乗りなれている。 帰りは、横目を振らずにとばしてて帰った。

右手に持つのがライフル
このライフル・ケースは、ホヴァートがミシンで縫ったもの

ホテルに着くとステパンは戻ってきており、食事をしていた。 何もなく、無事に帰ってきていて良かった。 ところが、私の足の指先が凍傷の一歩手前のような状態になって、真っ赤にむくんでしまった。 湯船にぬるま湯をはって、しばらく足をつけておいた。 最初は顔がゆがむほど、指先に痛みを感じた。 でも、大場さんに対処法を教えてもらったので、 今は無事に椅子に座って日誌を打っているところである。

明日のフライトも中止になった。低気圧が、動かずに停滞しているためである。 しかし、大きな情報があった。 チャーター会社のケンボレック・エアが、スポンサーになってくれることになったのだ。 レゾリュート・ベイからワード・ハント島までのチャーター便である。 これは大きい。遠征隊が出発してからしばらくすると、私が遠征隊へ補給に向かうので、 その往復便もなんとか協力してくれることを願う。

小林丈一    


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