2005年3月6日

遠征隊出発

いよいよ、遠征隊出発の日を迎えた。当初は、2月28日に出発する予定だった。 しかし、スタート地点のワード・ハント島の日照時間や天候が確実ではなかったため、3回延期していた。

我々が空港へ着くと、トゥイン・オッターと呼ばれる小型機は準備が整えられていた。 長さ約5mの機内は、3台のソリと燃料が入った2本のドラム缶が窮屈に積み込まれていた。 我々、4人が乗るとスペースは限界だった。朝5:00、トゥイン・オッターが薄明かりのレゾリュート・ベイから離陸した。 私は、「ブーン」というプロペラの音を懐かしく感じていた。 アメリカへスカイ・ダイビングのトレーニングに行った時に、 トゥイン・オッターから、4,000mの機外へ飛び出したことを回想していたのである。

ここで、日本を出るときによく聞かれた「おしっこが、凍ってしまうのではないか?」という質問にお答えする。 答えは…「凍りませんでした。」

パイロットは操縦だけでなく、−49℃の中、給油まで行う。
給油が終わるとまた操縦だ。

飛行機が給油している間、私は、水素イオン濃度を測定するための雪を採集した。 これは、私が在籍する東北公益文科大学の大歳恒彦教授(工学博士)の協力を得ている。 北緯80度の雪は、非常に貴重である。大歳教授も、楽しみにして下さっていることであろう。

降雪を採集中は、寒さ、いや「寒さを超えた痛さ」のため顔がこわばる。足の指先も、カチンコチンになってきた。 4日前に(詳しくは3月2日付の日誌)、凍傷になりかけたあの時の感覚と同じである。 凍傷に対する「心配を超えた恐怖」が頭をさえぎった。私は、機内に戻ると知恵を絞り始めた。 まず、ビニール袋に足を入れると、余っている手袋をつま先に履かせた。 そして、飛行機に積んである緊急用の毛布と寝袋を借りて下半身を突っ込んだ。 ホヴァードが、「足をマッサージしてあげるぞ」と言ってくれたが、まずはこの方法で様子をみた。

左上の風向と風速をあらわすウインド・ソックスは、凍りついたままである。
あと、何週間凍ったままでいるのだろうか?

給油を終えたトゥイン・オッターは、再びプロペラ音を高鳴らせると北へ向かって離陸した。 朝焼けが、白い大地をオレンジ色に染めていた。大地は起伏のみで、当然、道路も家屋もない。

トゥイン・オッターは、高度約1,000フィート(約300m)を飛んでいたが、 海氷上の起伏を確認すると高度を下げながら大きく旋回を始めた。 数日前の打ち合わせのときは、事故の可能性として、海氷の起伏に車輪が引っかかって横転することが挙げられていた。 しかし、十分な明るさがあってパイロットが海氷の起伏を視認できたので、11時45分、無事に着陸することができた。

早速、遠征隊員たちは荷物を降ろしてソリを組み立て始め、パイロットたちは給油を始めた。 周りは、いつの間にか霧に包まれていた。到着があと数分遅れたら、 着陸地点を新たに探さなければならなかったかもしれない。

30分ほどすると、パイロットがヨーレカへ戻るサインを出した。 私たちは、慌てて、それぞれの国旗を掲げて写真に収めた。

右からステパン(ロシア)・大場(日本)・ホヴァード(ノルウェー)
小林(ヌナブト準州)

肩を叩き合い、幸運を願い合うと、私は再びトゥイン・オッターへ乗り込んだ。帰りは、パイロット2人と私だけである。 私は、再び寝袋に足を入れて、血行が悪くなった指先を温めながら、温かい飲み物を飲んだ。 幸い足先は温度を回復して、汗ばむまでになってきた。同時に、凍傷を恐れてかいていた冷や汗が引いていった。

遠征隊の3名が、これから始める約4,000kmの旅を楽しく、かつ安全に移動できることを心から願った。 12時15分に離陸したばかりなのに、下界は、朝焼けがそのまま夕焼けに移行したような色だった。 いかに、地球の北端へ来ているかを感じ取る瞬間だった。

小林丈一    


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