名前の話
シミヨック・ヴィルヘルム・ベンディ・クナ・クーイツェ
アンナの息子、ベンディの名前を全部書くと、Simujoq Vilhelm Bendt Kunak Kuitse(シミヨック・ヴィルヘルム・ベンディ・クナ・クーイツェ)となる。
身分証明書では、シミヨック・B・クーイツェ。普段はベンディ、あるいは、あだ名の「ナロッタイ(小さい赤ちゃんという意味)」と呼ばれているそうだ。
「シミヨック」は祖母の家系の名前。
「ヴィルヘルム」は祖父の名前。
「ベンディ」は村の人の名前で、その人が亡くなったときに受け継いだ名前。
「クナ」は村で親しくしている人の娘の名前で、彼女が亡くなったときに受け継いだ名前。
そして「クーイツェ」が姓という訳だ。
名前を受け継ぐということは、その人の生命を受け継ぐ、という意味を持っているそうだ。
4つの名前を持つベンディ。
ベンディは、かつてはハンターだったが、凍傷で右手の指を二本失ってからは、観光ガイドの仕事をしている。
ハンターだったときは、犬ぞりでの猟の途中、ソリごと氷の割れ目に落ち、死にかけたこともあるという。
クルサックでは、今ハンターとして生活していくのは難しいそうだ。アザラシの毛皮の値段が暴落してからは現金収入が減り、
現在は、より収入の多い漁師になりたがる人の方が多いという。
トム・エッグ・スティムソン
トムの名前は一度聞いたら、まず忘れられない。Tom Egg Stimson(トム・エッグ・スティムソン)。
ミドルネームのエッグ(卵)は、もともとは彼のママが、小さいときの、卵のように白くてかわいかったトムを呼んでいたニックネームだったという。
その呼ばれ方を気に入っていたトム自身が、少しのお金を払って、役所に改名願いを出して、正式な名前にしたそうだ。
パスポートを見せてもらったら、確かにEggと書かれてあった。
トムは16才のジャーナリストで、イギリスの雑誌に旅行記事を書いている。
去年、15才でデビューしたばかりだという。南フランス、北フランス、ブルガリアに続いて、
4つ目に書くのが、グリーンランドについてだそうだ。学校にはもう通っていない。今は旅をして、
10代の今の自分が感じる世界を記事で伝えたいと目を輝かせていた。でも、2週間以上の長い旅は、
ホームシックになってしまうのでしたくないという。そんな、大人と子供が同居しているところが、トムのおもしろいところだ。
16才のジャーナリスト。トム・エッグ・スティムソン。
グリーンランドに来て一ヶ月、もうすでに数え切れないくらいの人に出会ってきた。
トムと別れ、クルサクからカンゲルスアックに向かう飛行機の中では、ちょっとだけ、サヨナラに疲れたような気分になった。
出会えば出会うほど、サヨナラの数も増えていく。
人間交差点
カンゲルスアックは、南のナルサスアック同様、第2次世界大戦中に米軍基地として作られた町で、
1992年にグリーンランドに返還され、ジャンボ機が発着できる長い滑走路があるため、今は国際便、
国内便が発着するグリーンランドの表玄関となっている。
グリーンランドの表玄関。カンゲルスアック空港。
町は、広く平らな土地に、基地跡の建物をそのまま使っているので、グリーンランドの他の町と比べると、
ずいぶん殺風景な印象をうける。カンゲルスアック(Kanngerlussuaq)は大きなフィヨルドという意味で、
グリーンランドのあちこちに同じ名前の場所があるそうだ。
空港のカフェテリアからは、北極点まで3時間15分、東京まで10時間5分という標識が見えた。
ニューヨーク、ロス・アンジェルス、モスクワ、パリ、ロンドン、フランクフルト、コペンハーゲン・・・一番遠い都市が東京だった。
世界の都市への道しるべ。
カンゲルスアックでは、思いもかけない人に出会った。彼の名前はモハメッド。アフリカのスーダン出身の医師で、
グリーンランドに帰化(きか)し、もう12年になるそうだ。
カンゲルスアックのバーの前で。 スーダン出身のモハメッドはグリーンランドでは有名人。
グリーンランドの人口は約56,000人。そのうち約88%がイヌイットおよびイヌイットとデンマーク系の混血、
約12%がその他の外国からの出身者で、デンマーク系が大半だが、アイスランド、イギリス、フランス出身も見かける。
アジア系では、タイ人が一番多いそうだ。企業の出向(しゅっこう)などで一時的に住んでいる人は別として、
日本人で定住しているのは佐紀子さんと大島育雄さんの二人だけだ。
カンゲルスアックで知り合った、地質学者のアシスタントをしているというクリステンは、
グリーンランド人とデンマーク人の混血。デンマークとグリーンランドを行き来しながら育った彼は、
自分のアイデンティティー(存在の帰属先、正体)に悩んでいた。デンマークにいると、グリーンランド人として見られ、
グリーンランドでは、デンマーク人として見られる。どっちにいても宙ぶらりんな存在で、自分がいったい何者なのか、わからないという。
去年、奨学金をもらって、グアテマラに交換留学生として行って来たばかりだというクリステンは、
もっともっとたくさんの人に出会って、色んな国を見てみたいという。
「例えば大島育雄さんが、グリーンランドでハンターとして生きる道を見つけたように、
モハメッドが医師としてグリーンランドで生きることを選んだように、自分の生きる場所は、自分で選んでいいんじゃない?」と、
私はこのごろ思っていたことをクリステンに言ってみた。そんな話をしていたら、モハメッドが、悩めるクリステンと私に、
シンプルだけど示唆(しさ)に富んだアドバイスをくれた。
「何かの答えが欲しいときは、人間を見ては駄目だ。人間は時として非常に愚(おろ)かな行動をとるから混乱するばかりだ(イラクの紛争のように)。
動物の行動から学ぶのが一番だ。アリや、ハチがどうやって生きているか、注意深く観察してみるといい。
彼らは賢いよ。人間よりよっぽど間違いがない。」
58才になるというモハメッドは、ただそこに存在するだけで、その場の空気があたたかくなるような人だった。
でもあたたかいだけではなく、同時に、修羅場(しゅらば)をくぐり抜けてきた人間だけが持つ威厳(いげん)と、
静かな迫力と、深い知恵を持ち合わせているような人格を感じた。
「あなたのこと、日記に書いていい?」と、モハメッドに聞いたら、
「私は、ちっとも優等生じゃなくて、落ちこぼれの問題児だったってことを、必ず付け加えておいてくれよ」といって、にっこり笑った。
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