1953年に起こったこと
1953年、第2次世界大戦後の冷戦の最中、アメリカ軍は基地建設のために、
Uummannaq(ウマナック:北西部にある島とは別の村)の村民、約100名を今のカーナークに強制移住させた。
4000年もの間、イヌフイットの土地であったその村を去るために与えられた日数は、たった4日だった。
Uummannaqを追われた人々は、漁猟の好適地でもあり、この地域の伝統的中心でもあった住み慣れた故郷を、
一瞬にして、そして、事実上永遠に失った。
Hingitaq53
ウーハッカ・クヤギッチョック(Uusarqak Qujaukitsoq)は、この強制移住の経験者であり、
Hingitaq53(ヒンギタック53)のリーダーでもある。Hingitaq53とは、強制移住後に組織された被害者団体で、
このHingitaq53がデンマークやアメリカ政府を相手にねばり強く交渉を続けた結果、1997年、強制移住後50年にして、
ようやく正式な謝罪を取り付け、もとのUummannaqに戻る権利も勝ち取ったのだ。
カーナークで、そのウーハッカを訪ねた。このような運動団体のリーダーとして、
世界のメジャーなニュース誌のヘッドラインになるような活動をしてきた人なので、ウーハッカに会う前は、
少しおそるおそるという気分だった。ウーハッカの家だと教えられた、きれいなオレンジ色の家のドアをたたいたが、
中には誰もいないようだった。
町の人たちに尋ねながら探していると、病院で働くウーハッカの妻に先に出会うことができた。
「家にいないなら、きっと犬たちのところよ。今から一緒に行きましょう。」
オレンジ色の家に戻ると、広地の向こうにウーハッカらしき人が見えた。犬の世話から帰ってきたウーハッカは、
日に焼けたにこやかな笑顔の、いかにもカーナークの猟師といった風情(ふぜい)の人だった。
ウーハッカ・クヤギッチョック(Uusarqak Qujaukitsoq)。
権利回復の活動は、1997年に一応の決着が付いた形にはなったが、地元カーナークの人々や、
ウーハッカは「まだ交渉は続けていく」という姿勢でいる。基地の周辺の海域の環境汚染問題は深刻で、
特に1968年1月29日にアメリカ軍のB−52爆撃機が基地近くの海氷の上に墜落した事件は、その後長くあとを引き続けることになる。
この爆撃機は核兵器を積んでおり、この事故の後始末をしたデンマーク人や地元住民達は強い放射能にさらされ、
事故の18年後に行われた医療検査でも、放射能による病気が指摘されているという。
また、この海域に住む生き物を獲って生活しているカーナーク地方の人々にとっては、食物汚染の問題も無視することはできない。
トリシア・ヤンセン(Thericia Jansen)。
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高齢者のホームで暮らすトリシアは、ホテル・カーナークのオーナー、ハンスの母親。
89才でカーナークでは最高齢。1953年、当時38才だったトリシアは、Uummannaqからの強制移住のとき、
3才だったハンスと夫とともにカーナークに来た。夏の出来事で、ボートに乗せられ、Uummannaqを去ったのだという。
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Hingitaq53は、デンマークやアメリカ政府を相手取り、この海域の汚染駆除の作業と強制移住の補償金を要求した。
これはデンマークの法廷で係争(けいそう)されていたが、棄却(ききゃく)され、
このあとはストラスブールの人権法廷に持ち越されることになったと聞いた。
Hingitaq53の活動を支えるのは、ICC(Inuit Circumpolar Conference)という、ロシア東部、アラスカ、カナダ北極圏、
及びグリーンランドのイヌイットを結ぶ国際組織だ。人権問題、北極圏の環境問題、教育、言語などを扱っており、
ICCは、北極圏の軍事的利用には反対の姿勢をとっている。
エミリエ・クリスティアンセン(Emilie Kristiensen)。
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エミリエに、古いUummannaqの写真を見せてもらった。
エミリエは強制移住後、1960年代から1985年まで基地近くで暮らしていた(家族にデンマーク人がいた関係らしい)。
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「イヌフイット」とは、グリーンランドの最北、カーナーク地方に住む人々の呼称で、「偉大な人々」を意味する。
人口で言えば700人程度というイヌフイットは、グリーンランドの中でも特殊な存在だという。
グリーンランド全体では、狩猟によって生計を立てている人口の割合はわずか5%にすぎないが、イヌフイットの過半数は今でも、
アザラシ、セイウチ、北極キツネ、鳥、シロクマ、魚などを捕り、ハンティングには伝統のハープーン(銛)、カヤック、犬ぞりを用いている。
すでに、それら伝統を失った人々は、偉大なハンター、イヌフイットに対して尊敬、憧れを抱き、
そして、この地方で起こった基地建設による「イヌフイットの母なる海、そして大地」の喪失については同情する風潮もあるという。
ただ、ホーム・ルールは、Hingitaq53の活動に対して、感情的支持はするが、資金的援助はできないという見解を示しているそうだ。
1962年にUummannaqの様子。バスケット・ボールでサッカーをする子供達。
すでに30年間、故郷回復のために闘ってきたウーハッカ・クヤギッチョック。
心臓を患い、医師から半年間の静養を命じられていたが、それが6月で解禁になったばかりだそうだ。
じっとしているほうが辛かったから、久しぶりに犬ぞりでハンティングに行くのが楽しみだと言っていた(数日後町で会ったとき、
「一匹のアザラシを仕留めることができたよ」と言って、顔を輝かせて喜ぶウーハッカに出会うことができた)。
「私は、祖先たちから伝わる素晴らしいハンティング・グラウンド(故郷Uummannaq)で生まれた。
私は、そこに戻り、自由に動き、猟をしたい。もし、何も抵抗しなかったら、この世からイヌフイットもハンターも絶えてしまうんだ。」
ウーハッカが言っていたように、時にはそこに強い意志が働かないと、伝統というのは残っていかないものなのかも知れない。
例えば、カナダ北極圏のイヌイットは、政府の教育政策によって、英語が浸透し、
若い世代はほとんどイヌイット語を理解しなくなっているという話も聞く。
70年代に撮影された写真。花が手向けられた墓地。
1950年に、カーナークを訪れたフランス人科学者、ジャン・マローニ(Jean Malaurie)は、
14ヶ月間の滞在で見聞、体験したことを『The Last King of Thule』という本に記し、イヌフイットの、
この厳しい気候の中で生き抜いてきた知恵を讃えている。
刻々と変わる自然と向き合い、創造力、判断力、感性などあらゆるセンスが必要とされるハンティング。
「腕のいい猟師は必ず頭もいいと思います」と佐紀子さんも言っていたが、私も同感だ。偉大なハンターは、狩猟の技術だけでなく、
人格にも優れ、かつユーモアのセンスがあり、そしてとてもいい顔をしている。そのにじみ出る豊かな人間性は隠しようがない。
私が、「カーナーク、ヌアンニ」(カーナークは素晴らしいところね)と、グリーンランド語で言ったら、
「ピッコリ!」(すごい、偉い、上手、など何かをほめるときに使う表現)といって、ウーハッカは相好(そうこう)を崩した。
そして、今度カーナークに来たときは、一緒にイッカク漁に行こうと、ウーハッカと約束をした。
故郷の猟場で、カヤックを漕ぎ、ハープーンを投げ、イッカクを仕留めるウーハッカの姿に再会できる日が、心から待ち遠しい。
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